資料解説
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2023文化財ウィーク展示資料解説p.5(14)「江戸時代初期の大奥の図面です。図面には寛永度(1624-1645)とありますが、研究により、実際には万治度(1658-1661)の大奥の平面図とされています。内部は、御台所の生活の場の「御殿向(ごてんむき)」、奥女中の住居である「長局向(ながつぼねむき)」、大奥の事務を扱う「広敷向(ひろしきむき)」の三つの区域で構成されていました。後に奥女中の数や本丸御殿の焼失・再建などで、大奥内部の構造も変わっていきました。(Inner Palaces of Edo Castle in the Kan'ei Period)This diagram shows the Inner Palaces of Edo Castle in the early 1600s. They were divided into three sections: the Goten-muki that was the residence of the Shōgun's wife, the Nagatsubone-muki where the palace maids resided, and the Hiroshiki-muki that housed the palaces' administrative offices.」,2022文化財ウィーク電子展示解説(9-8)「この図面には寛永度(1624-1645)とありますが、万治度(1658-1661)の大奥の平面図です。将軍の家族の生活の場であった大奥は、御殿向(ごてんむき)、広敷向(ひろしきむき)、長局向(ながつぼねむき)に分かれていました。御殿向は、御台所、将軍の生母や子女の生活の場、広敷向は大奥の管理を行う男性の広敷役人の勤務場所、長局向は奥女中たちの宿舎でした。大奥と中奥は塀で厳重に仕切られ、御鈴廊下(おすずろうか)と呼ばれた廊下だけでつながっていました。(Pictorial Diagram of the Ō-oku in the Kan'ei Period) This is a floor plan of the Honmaru Ō-oku of Edo Castle in the second half of the 17th century. The Ō-oku was the living quarters of the Shōgun's family and separated into different zones for various purposes. This drawing may actually depict the Honmaru Goten's O-oku (inner part of the main palace) during the Manji period (1658-1661).」,2016文化財ウィーク『いざ江戸城へ!』図録p.1「本丸御殿は、表・中奥・大奥の3つのエリアに分かれていました。こちらの絵図は、寛永度(1624-1645)とありますが、万治度(1658-1661)の本丸大奥のものと考えられています。次の「御本丸寛永度絵図」と合わせて江戸城本丸全体を表しています。図の右側にある中奥との境は、銅塀で厳重に区切られ、御鈴廊下のみで繋がっていました。大奥は御台所や女中の生活の場でしたが、正式な書院造りの対面所があり、儀式や年中行事が行われていました。(Drawing of Inner Palace in Kan'ei Period)Honmaru Palace was divided into three areas: Omote Front Palace, Nakaoku Central Palace, and Ō-oku Inner Palace. This drawing has writing indicating that it is from the Kan'ei period (1624-1645), although it is believed to depict the Ō-oku area of Honmaru Palace during the Manji period (1658-1661). Combining it with the following Go-Honmaru Kan'eido Ezu (Drawing of Honmaru Palace in Kan'ei Period) reveals the Honmaru Palace of Edo Castle in its entirety.」,2008文化財ウィークリーフレットp.1,2008大規模企画展(7)「本丸大奥部分の絵図。この資料には“寛永度絵図大奥”と題された付箋があるが、諸研究により、実際には万治度造営(1659-1844)の初期の様子を描いていると推測されている。大奥は、将軍奥泊まりの際の寝所や御台所の居室、奥女中の詰所がある“御殿向”、奥女中の住居である“長局向”、広敷役人の詰所がある“広敷向”の3つの区域によって構成されていた。広敷役人とは、大奥勤務の男子役人のことで、大奥内部の事務処理のほか、警備・監察にあたっていた。」,『第1回江戸資料展』図録解説p.13「両図ともに良筑前(宗村)(宝暦-文政初)の控で、朱線で方眼紙を画き、その上に製図した。寛永図は以後の再建の基礎とされたもの。甲良家文書は大奥関係が少ない。甲良家が作事方に属し、表向工事が担当で、小普請方施工の大奥には関係がなかったためか。同年度の表・奥とそろったのはめずらしい。」
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