資料解説
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2023文化財ウィーク展示資料解説p.2(7)「明暦の大火で焼失した天守は、軍事や財政等の問題から不要とされ、再建されませんでした。本図は、正徳2年(1712)、6代将軍家宣(いえのぶ)の時代に、新井白石らによって計画された天守再建案の図とされています。3代将軍家光の寛永度天守を基にし、5層5階、屋根に鯱(しゃちほこ)を置き、腰壁は銅板となっています。しかし、この再建計画も実現せず、江戸城は天守が無いままで幕末を迎えました。(Pictorial Diagram of the Façade of the Edo Castle Donjon)Owing to obstacles such as funding, the donjon destroyed in the Great Fire of Meireki in 1657 was never rebuilt. This diagram was produced for the purpose of the rebuilding planned in 1712, which never came to fruition.」,2022文化財ウィーク電子展示解説(9-10)「この図は、正徳(1711-1716)頃、新井白石らによって計画された天守再建のための絵図です。寛永度の天守を参考にし、5層5階、壁は銅板張りです。しかし、この計画は実現されませんでした。(Pictorial Diagram of the Front of the Edo Castle Donjon) This drawing was prepared for the reconstruction of the donjon in the Shōtoku Period (1711-1716). However, the reconstruction plan was never realized.」,2019文化財ウィーク(76)「正徳(1711-1716年)頃に新井白石らによって提案された再建計画の正面図といわれています。天守閣は不要論が強く、石垣は修復されていたものの、その後再建されることはありませんでした。高さは石垣を含め60mといわれています。(Front View of the Tower of Edo Castle)This is said to be a front elevational view for the reconstruction of the castle tower planned in the Shōtoku period. There was strong opposition to the idea of reconstructing the tower and the reconstruction plans were never realized, although the stone walling was repaired.」,2013文化財ウィーク(9)「江戸城の天守閣は外観5層、内部は穴倉を含めて6階、地上からの高さは58.64mで、天守閣の中では最大のものでした。しかし明暦の大火(1657)で焼失、その後再建されることはありませんでした。この絵は焼失した天守の図面をもとに、正徳2年(1712)に新井白石(1657-1725)らによって提案された、天守閣再建の正面図とされています。」,2011大規模企画展(2)「江戸城のシンボル、天守閣の絵です。江戸城の天守閣は、江戸初期の明暦3年(1657)の振袖火事 といわれる大火で焼失してしまいました。この図は、正徳2年(1712)に新井白石らによって提案された再建計画の正面図といわれています。軍事的、財政的理由から不要論が強く、石垣は修復されていたものの、その後再建されることはありませんでした。高さは石垣を含め60mといわれています。」,2011文化財ウィーク(40)「明暦3年(1657)の明暦の大火で焼け落ちた後、天守台だけが加賀・前田家によって造営され、天守閣は再建されませんでした。六代将軍家宣の時代に新井白石等によって再建が計画されましたが、実現しませんでした。この図はその正徳2年(1712)の天守閣の正面の再建計画図です。」,2003文化財ウィーク(68)「正徳2年(1712)再建計画案と考えられている天守の立面図。石垣の上に5層5階、最上階の屋根に鱐鉾を置き、その下に唐破風、千鳥破風を配し、腰壁は銅板となっている。細部においては正確な建築図ではないが、寛永度の立面を踏まえた外観を描く。明暦3年(1657)の大火で焼失後、再建案は何度か出たが実施に至らず、江戸城は天守がないまま維新を迎えた。当図と対になる横面之図も所蔵する。」
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